『メイドインアビス』には、忘れがたいキャラクターが何人も登場します。
その中でもボンドルドは、恐ろしさと異様な魅力をあわせ持つ、非常に印象的な存在です。
今回はそんなボンドルドを入り口にしながら、『メイドインアビス』という作品の魅力と、そこから見えてくる「俯瞰して考える力」について書いてみたいと思います。
『メイドインアビス』のボンドルドは、明らかに恐ろしい存在です。
やっていることだけ見れば、到底受け入れがたい。倫理的に見ても、擁護のしようはありません。
それなのに、読んだあとにただ「ひどい敵だった」で終わらない。
むしろ強く印象に残り、気づくと何度も考えてしまう。
嫌悪だけでは片づかない、妙な引力がある。
この感覚こそが、ボンドルドというキャラクターの異様さだと思います。
私自身、ボンドルドのエピソードを読んだとき、最初に感じたのは「ここまでやるのか」という衝撃でした。
展開は苛烈で、読んでいてしんどくなる。
息苦しさすらある。
しかし同時に、ただ残酷なだけの敵にはない魅力も感じました。
なぜこんなにも恐ろしく、それでいて目が離せないのか。
なぜ「許せない」と思うのに、「魅力的だ」とも感じてしまうのか。
その理由を考えていくと、ボンドルドの魅力は単なる非情さではなく、どこまでも一貫していることにあるのではないかと思えてきます。
彼は感情でぶれません。
その場しのぎの言い訳をしません。
目の前の出来事に飲み込まれず、いつも一段引いた視点を持っている。
自分が信じた原理から、最後まで降りない。
だからこそ恐ろしく、同時に宿敵として非常に魅力的です。
そして、ここが今回いちばん考えたいところなのですが、ボンドルドのその姿勢は、現実ではもちろんそのまま真似していいものではありません。
人を手段として扱うことも、目的のために倫理を切り捨てることも、現実では明確に線を引くべきです。
ただ、それでも彼から取り出せるものがあるとすれば、それは感情に飲まれずに現象を眺める力、つまり一種の「俯瞰して考える力」ではないかと思うのです。
以前、私は『サマータイムレンダ』について、「俯瞰」という切り口で記事を書きました。
あの作品では、俯瞰は生き延びるため、守るため、状況を見抜くための力として働いていました。
一方でボンドルドの俯瞰は、もっと危うく、もっと極端です。
だからこそ、考える材料としてとても面白い。
この記事では、まず『メイドインアビス』という作品そのものの魅力を簡単に整理したうえで、ボンドルドがなぜこれほど印象に残るのかを考えます。
そのあとで、彼の思考のどこに「俯瞰」の要素があるのか、そしてそれを日常に持ち帰るならどこまでが有効で、どこからが危険なのかを、順番に言葉にしてみたいと思います。
『メイドインアビス』をまだ読んでいない方は、まず作品全体の空気感に触れてみると、このあとの話が入りやすいはずです。
あのかわいらしい絵柄と、底知れない世界の神秘、そして容赦のない現実が同居する感覚は、実際に読んでこそ強く伝わります。
もくじ
ボンドルドの強さは、非情さよりも「俯瞰して見る力」にある

ボンドルドを語るとき、まず目につくのは非情さです。
たしかにそれは間違いありません。
彼の行動は苛烈で、見ていて苦しくなる。
倫理的に見ても、到底受け入れられるものではない。
だから、ボンドルドの特徴を一言で言おうとすると、「冷酷な人物」という表現に引っ張られやすくなります。
ただ、私はそれだけでは少し足りないと思っています。
ボンドルドの強さを本当に支えているのは、単なる冷酷さではなく、起きていることを一段引いて見る力ではないか。
もっと言えば、彼は感情を切り捨てているというより、感情より先に構造を見ている。
この点が、ただの残虐な敵との大きな違いだと思うのです。
普通、私たちは何か問題が起きたとき、まず感情で反応します。
予想外のことが起きれば焦る。
うまくいかなければ落ち込む。
否定されれば傷つく。
失敗すれば、自分を責める。
これはごく自然なことです。
人間は当事者として生きているので、目の前の出来事に心が揺さぶられるのは当然です。
けれど、ボンドルドはそこに長くとどまりません。
彼は起きた出来事を、すぐに「現象」として扱う。
何が起きたのか。
なぜ起きたのか。
この条件では何が引き起こされるのか。
次にどんな変化が起こりうるのか。
どこを修正すれば、さらに先へ進めるのか。
そうした問いに、迷いなく移っていく。
この移行の速さが、彼をただの非情な人物ではなく、異様に強い人物にしています。
言い換えれば、彼は感情を判断の中心に置かないのです。
もちろん、感情がまったくないわけではないはずです。
ただ、少なくとも判断の軸にはしていない。
そこにあるのは、「この現象は何を示しているのか」という観察者の視点です。
これを日常の言葉にすると、少しわかりやすくなります。
たとえば、私たちは失敗したとき、こう考えがちです。
「やってしまった」
「また同じことを繰り返した」
「自分は本当にダメだ」
この反応は自然ですし、誰にでもあります。
ただ、この考え方だと、出来事より先に自己否定が始まってしまうことがある。
結果として、原因を整理する前に気持ちが沈んでしまう。
問題を解く前に、自分を責めるほうへ力を使ってしまう。
そうなると、反省より消耗のほうが大きくなりやすい。
一方で、ボンドルド的な見方をすると、言葉が少し変わります。
「なるほど、この条件では崩れるのか」
「これは失敗というより、条件確認が済んだということだ」
「次に進むために、どの要素を調整すべきか」
この見方の何が強いかというと、痛みや損失すら“観測結果”としても扱えることです。
ここが、ボンドルドのもっとも恐ろしいところであり、同時に思考法としては非常に強いところでもあります。/
私たちは普通、損失を損失としてしか見られません。
嫌な出来事は嫌な出来事であり、つらいことはつらいことです。
それはまったく健全です。
ただ、そこから先に進むためには、ときどき「この出来事は何を教えているか」と問う必要があります。
ボンドルドは、その問いに迷いなく移る。
だから前へ進めてしまう。
さらに彼は、物事を常に目的から逆算して考えているように見えます。
何を得たいのか。
どこへ到達したいのか。
そのために必要な条件は何か。
今の出来事は、その目的に対してどういう意味を持つのか。
こうした視点を徹底しているから、表面的な混乱に巻き込まれにくい。
ここで大事なのは、これは単なる「頭の良さ」の話ではないことです。
むしろ、視点を一段上げる習慣の話に近い。
今起きていることの只中にいながら、同時に少し離れたところから全体を見る。
その瞬間の感情だけで、出来事の意味を決めつけない。
この力があると、同じ出来事でも意味づけが変わります。
たとえば、人に否定されて落ち込んだとき。
普通なら、「嫌われた」「自分には価値がない」と一気に飛びたくなることがあります。
けれど俯瞰の視点を入れると、「相手は何に反応したのか」「自分の言い方にどんな摩擦があったのか」「これは人格否定なのか、それとも単に伝達のズレなのか」と、少し構造的に見られるようになります。
傷ついた事実は消えません。
ただ、傷ついたことと、そこから何を読むかを分けて考えられるようになる。
ボンドルドの強さは、まさにここにあるのだと思います。
彼は出来事の中にいるのに、その出来事を外からも見ている。
当事者でありながら、同時に観察者でもある。
この二重性が、彼を異様なまでに安定した存在にしています。
もちろん、この姿勢には大きな危険があります。
痛みを「データ」として見られるということは、痛みを「人のもの」として尊重しなくなる危険もあるからです。
そこを越えてしまうと、俯瞰は冷静さではなく、冷酷さに変わってしまう。
だからボンドルドの俯瞰は、そのままでは現実に持ち込めません。
けれど、それでもなお考える価値があるのは、ここにひとつの重要な問いがあるからです。
俯瞰はたしかに力になる。だが、倫理を失うと怪物にもなる。
この境目をこれほど強く見せてくれるキャラクターは、そう多くありません。
ボンドルドの面白さは、まさにこの境界線の上に立っているところにあります。
そしてこの「俯瞰」という視点をさらに整理するなら、以前書いた『サマータイムレンダ』の記事と比べてみるのがちょうどよい気がします。
同じ「一段引いて見る力」でも、守るために使うのか、到達するために使うのかで、印象も意味もまったく変わってくる。
次はその違いを考えてみます。
『サマータイムレンダ』で考えた俯瞰力と、ボンドルドの違い

以前、私は『サマータイムレンダ』について、「俯瞰」という切り口で記事を書きました。
あの作品を読んだときに強く感じたのは、主人公の慎平が、目の前の状況に飲み込まれながらも、少しずつ全体を見ようとしていく姿でした。
何が起きているのか。
どこに見落としがあるのか。
何が原因で、どこで分岐したのか。
その積み重ねの中で、慎平はただ反応するだけではなく、状況を一段引いて捉える力を身につけていきます。
そのとき私は、俯瞰には少なくとも三つの側面があると考えました。
ひとつは状況を俯瞰すること。
いま何が起きているのか、事実と推測を分けて見ようとする力です。
二つ目は因果を俯瞰すること。
なぜこうなったのか、どこに原因があるのかをたどる力です。
そして三つ目は時間を俯瞰すること。
今の選択がどんな未来につながるのかを見ようとする力です。
『サマータイムレンダ』における俯瞰は、基本的には守るための力でした。
状況を見誤らないため。
仲間を失わないため。
同じ失敗を繰り返さないため。
目の前の混乱に押し流されず、少しでも正しい判断をするため。
そこにあるのは、痛みを抱えながらも、それでも人間らしさを失わずに考えようとする姿勢です。
一方で、ボンドルドの俯瞰はまったく別の手触りを持っています。
彼もまた、状況を見ています。
因果を読みます。
先の変化を予測します。
その意味では、同じく「俯瞰」の力を使っているように見える。
けれど、その目的が大きく違います。
慎平が俯瞰するのは、守るためです。
人を失わないためです。
人間として大事なものを守りながら前へ進むためです。
それに対してボンドルドが俯瞰するのは、到達するためです。
探究のため。
前進のため。
未知へ近づくため。
そこでは、ときに人間的な感情や一般的な倫理よりも、「先へ進むこと」そのものが優先される。
この違いはとても大きいと思います。
なぜなら、同じ俯瞰でも、何のために使うかで、その意味はまったく変わるからです。
俯瞰という言葉だけ聞くと、どこか冷静で良いもののように見えます。
実際、日常の中でも「一歩引いて考える」「感情的にならず状況を見る」という言い方は、基本的には前向きな意味で使われます。
私自身もそう考えています。
ただ、ボンドルドを見ると、それだけでは済まされないことがわかる。
俯瞰は便利です。
しかし、俯瞰の先にある目的がずれてしまうと、その力は簡単に危うい方向へ向かう。
たとえば慎平は、俯瞰しても当事者であることを失いません。
苦しみます。
迷います。
後悔します。
大切な人を守りたいという感情を手放さない。
だから彼の俯瞰には、人間味があります。
視点を上げながらも、地面から足が離れない。
それに対してボンドルドは、俯瞰が極端に強いぶん、当事者性の扱い方がまったく違う。
もちろん彼も当事者ではあるのですが、その当事者性を、ほとんど観察の中に取り込んでしまっているように見えます。
痛みも変化も、まず「起きたこと」として見る。
そのうえで、それが何を示しているのかを考える。
この姿勢があるから強い。
しかし同時に、この姿勢があるから怖い。
ここを整理すると、二人の違いは次のようになると思います。
慎平は、人間性を保つために俯瞰する。
ボンドルドは、到達のために俯瞰する。
慎平は、状況を整理しながらも、「誰を守りたいか」を見失わない。
ボンドルドは、現象を見ながら、「何に到達したいか」を見失わない。
この違いが、そのまま作品の空気の違いにもつながっています。
だから私は、今回ボンドルドを考えるときに、『サマータイムレンダ』の記事を思い出しました。
同じ「俯瞰」という言葉でまとめられそうなのに、読後感がまったく違うからです。
慎平の俯瞰には、希望があります。
訓練すれば身につけたいと思える、実践的な力としての魅力がある。
一方でボンドルドの俯瞰には、危うさがあります。
なるほど確かに強い。
しかし、その強さをそのまま肯定していいわけではない。
そう感じさせる異質さがある。
この違いを考えることは、単に二つの作品を比べる以上の意味がある気がします。
なぜならここには、私たちが日常で「俯瞰したい」と思うときに、何を残して何を捨ててはいけないのか、というヒントがあるからです。
俯瞰は必要です。
感情に飲まれず、事実と解釈を分ける力は、現実でもかなり役に立つ。
失敗したときに少し距離を取って原因を見ることも、人間関係で反応しすぎないようにすることも、どちらも大事です。
けれどそのとき、何のために俯瞰するのかを見失うと、力は簡単に危うくなる。
『サマータイムレンダ』とボンドルドを並べてみると、そのことがよく見えてきます。
俯瞰は万能ではありません。
それは強い道具ですが、使い方によって意味が変わる。
人を守るためにも使えるし、人を切り捨てる方向にも使えてしまう。
だからこそ面白く、だからこそ慎重に扱うべきものなのだと思います。
そして、この比較を踏まえたうえで改めて考えたいのが、ではボンドルド的な視点から、現実に持ち帰れるものは本当にあるのか、ということです。
次はそこを、できるだけ具体的に考えてみます。
それでも、ボンドルド的な視点は日常に活かせる

ここまで書いてきたように、ボンドルドの姿勢をそのまま肯定することはできません。
倫理の面から見ても、現実の人間関係にそのまま持ち込んでよいはずがない。
ただ、それでもなお、「この視点の一部は日常でも使えるのではないか」と思わせるところがあるのも事実です。
それは、彼の非情さではありません。
他人を手段として扱う冷たさでもありません。
取り出せるのは、もっと限定された部分です。
つまり、感情に飲まれたまま判断しないこと、起きたことを一度“現象”として見てみること、そしてその出来事から次の一手を考えること。
このあたりは、かなり実用的です。
たとえば、仕事でミスをしたときのことを考えてみます。
何かを間違えたとき、多くの人はまず落ち込みます。
「やってしまった」
「また同じことをした」
「自分は本当にダメだ」
そんなふうに、自分に向かって強い言葉を投げたくなることがあります。
その気持ちは自然です。
私もそうです。
失敗したら気まずいし、恥ずかしいし、誰かに迷惑をかけたならなおさら苦しい。
だからまずは落ち込む。
それ自体は避けられません。
ただ、そこで終わると、失敗はただの消耗になってしまいます。
一方で、少しだけボンドルド的な視点を借りると、言葉が変わります。
「なるほど、この条件だと崩れるのか」
「確認の順番に弱点があったのかもしれない」
「何が足りなかったのかを見直そう」
こう考えると、失敗は単なる自己否定の材料ではなくなります。
もちろん嫌な出来事であることに変わりはありません。
でも同時に、仕組みの弱点が見えた出来事としても扱えるようになる。
すると、「自分がダメだ」という話から、「どこに問題があったか」という話へ少しずつ移れます。
これは人間関係でも同じです。
誰かに否定されたとき、冷たくされたとき、思いどおりに伝わらなかったとき。
そんな場面では、つい「相手が悪い」か「自分が悪い」かの二択になりがちです。
そして多くの場合、心が疲れているときほど、その二択は極端になります。
けれど少し俯瞰してみると、別の見方が出てきます。
相手は何に反応したのか。
自分は何を期待していたのか。
その期待は現実的だったのか。
言い方、タイミング、前提の共有にズレはなかったか。
この問いを持てるようになると、出来事を人格評価だけで終わらせずに済むことがあります。
ここで役立つのは、相手を許すことではありません。
無理に大人になろうとすることでもありません。
大事なのは、感情と構造を分けて見ることです。
傷ついたなら、傷ついたでいい。
腹が立つなら、腹が立っていい。
ただ、その感情だけで結論まで決めない。
それが俯瞰の効き目だと思います。
習慣化の場面でも、これはかなり使えます。
何かを続けようとしても続かない。
やる気があったはずなのに、数日で止まってしまう。
そういうとき、私たちはすぐ「意志が弱い」と言いたくなります。
けれど、ボンドルド的な視点を少しだけ入れると、問いが変わる。
「本当に意志の問題なのか」
「やり方に無理がなかったか」
「負荷が高すぎなかったか」
「続かないのは自分がダメだからではなく、設計が合っていないだけではないか」
こう考えられると、自己嫌悪から抜けやすくなります。
続かなかったこと自体は事実です。
しかし、その事実から読み取るべきなのは、「自分には無理だ」という結論ではなく、「今の方法では続かない」という観測結果なのかもしれない。
この違いはかなり大きい。
私は、この「観測結果として見る」という感覚こそ、ボンドルド的な視点のもっとも実用的な部分だと思っています。
感情を消すのではなく、感情のあとにもう一つの見方を置く。
嫌だった。
苦しかった。
悔しかった。
そのうえで、「では、この出来事は何を教えているか」と考える。
この順番を持てるだけで、出来事の意味はかなり変わります。
たとえば朝、やる気が出ない日にも使えます。
「今日はダメだ」で終わるのではなく、
「今日は出力が落ちている日らしい」
「ならば最低限の運用に切り替えるべきだ」
と見る。
すると、完璧にやるかゼロか、という極端な発想から少し離れられます。
あるいは、不安が強くて前に進めないときにも使えます。
「怖いからやめよう」ではなく、
「怖いのは、それだけ重要度が高いからだ」
「ならば、一度に全部ではなく、小さく試すべきだ」
と捉えられるようになる。
ここでもやはり、感情そのものを否定するのではなく、感情の意味づけを変えることがポイントになります。
こうして見ると、ボンドルド的な視点を日常に活かすというのは、何か特別な思考術を身につけることではありません。
むしろ、いつも私たちが感情の勢いで一気に結論づけてしまう場面で、一拍おいて構造を見ることに近い。
いま起きたことは何か。
自分は何に反応しているのか。
そこから読み取れる条件は何か。
次に変えるなら何か。
この流れを持てるだけで、かなり楽になることがあります。
もちろん、これは冷たい考え方ではありません。
むしろ逆です。
感情に飲まれすぎると、私たちは自分にも他人にも厳しくなりやすい。
「こんな自分はダメだ」
「相手は最悪だ」
そうやって早く結論を出しすぎてしまう。
けれど一段引いて見ることで、少しだけ余白が生まれる。
その余白が、次の一手を考えるための余裕になります。
だから私は、ボンドルド的な視点には、現実で使える部分があると思っています。
ただし、それはあくまで限定的に切り出した場合だけです。
ここを曖昧にすると危ない。
実際、ボンドルドの強さをそのまま「学び」にしてしまうと、簡単に危険な話になります。
そこで次に考えたいのが、まさにその境界線です。
何を取り出してよくて、何を持ち込んではいけないのか。
ここをはっきりさせないと、今回の話はただの危うい称賛で終わってしまいます。
次は、そのブレーキの話をしたいと思います。
ただし、ボンドルドをそのまま真似してはいけない
ここまで読むと、「なるほど、ボンドルド的な見方には使える部分があるのか」と感じるかもしれません。
それ自体は、その通りだと思います。
ただし、ここで必ず立ち止まっておきたいことがあります。
それは、ボンドルドをそのまま真似してはいけないということです。
これは当たり前のようでいて、とても重要です。
なぜなら、彼の強さは魅力的に見える一方で、その強さの中には明らかに現実に持ち込んではいけない部分が含まれているからです。
いちばんわかりやすいのは、他人を手段として扱うことです。
目的のために、他人の痛みや尊厳を後回しにする。
その姿勢は、作品の中でこそ強烈なキャラクター性として成立していますが、現実でそれを許してしまえば、人間関係は簡単に壊れます。
仕事でも、家庭でも、友人関係でも、相手を「成果のための部品」のように扱い始めた瞬間に、何か大事なものが失われます。
ボンドルドの怖さは、そうした線を軽々と越えていくところにあります。
そしてその怖さは、彼が悪びれないからこそ、より際立つ。
もし彼が迷っていたり、後ろめたさを見せたりするなら、まだ読者は安心できます。
しかし彼はそうではない。
自分の論理の中で整っているからこそ、恐ろしい。
そこに魅力を感じることと、その姿勢を肯定することは、まったく別です。
もう一つ危ないのは、結果のために手段を正当化しやすくなることです。
俯瞰して考える力は、たしかに便利です。
感情に流されず、目的から逆算し、最適な選択を探す。
これは一見とても賢い。
しかし、その「最適」が何のための最適なのかを見失うと、簡単に危うい方向へ向かいます。
たとえば、何かを達成するために「このくらいは仕方ない」と考える癖がつくと、人への配慮や、自分自身の無理に対する感覚が鈍っていきます。
効率を優先しすぎる。
成果を優先しすぎる。
前進を優先しすぎる。
その先にあるのは、しばしば疲弊や関係の破綻です。
しかも厄介なのは、本人の中では「合理的な判断」に見えてしまうことです。
ここで私は、俯瞰には二つの使い方があると思っています。
ひとつは、感情に飲まれずに状況を整理するための俯瞰。
これはとても大切です。
もうひとつは、感情そのものを切り捨ててしまう俯瞰。
これは危ない。
一見似ていますが、中身はまったく違います。
前者は、「傷ついたけれど、何が起きたかを考えよう」という姿勢です。
後者は、「傷つきなんて無視して、先に進めばいい」という姿勢です。
この違いは大きい。
そしてボンドルドは、明らかに後者の極端な側にいます。
だからこそ、私たちが日常に持ち帰るなら、「冷静さ」だけを借りる必要があります。
感情を消すのではなく、感情を抱えたまま一段引いてみる。
相手の痛みを無視するのではなく、その痛みを踏まえたうえで状況を見る。
その線を守らないと、俯瞰はただの冷たさになってしまいます。
さらに言えば、俯瞰はときどき麻痺と見分けがつきにくいことがあります。
たとえば、つらいことが続いたときに、あまりにも客観的にばかり語れるようになると、それは本当に冷静なのか、それとも感情に触れないようにしているだけなのか、わからなくなることがあります。
「これは貴重な経験だ」
「これも学びだ」
「前向きに捉えよう」
そう言えること自体は悪くありません。
ただ、その言葉があまりにも早く出てくるとき、自分の本当の痛みを飛ばしてしまっていることもあります。
この点でも、ボンドルドをそのまま真似するのは危険です。
彼の強さは、当事者の痛みをほとんど観察に組み込んでしまえるところにあります。
しかし私たちは、そこまで切り離してしまってはたぶん生きられません。
というより、そこを切り離さないからこそ、人間らしく悩み、迷い、関係を守ろうとできるのだと思います。
だから今回の話をまとめるなら、こうなります。
ボンドルドから学べるのは、非情さではない。観察力と一段引いた視点だけである。
そしてそれすらも、倫理とセットでなければ危うい。
ここをはっきり意識しておくことで、ボンドルドの魅力を安全に考えられるようになります。
単なる称賛ではなく、単なる否定でもなく、
「強い。だが危うい」
「参考になる。だが線は引く」
という距離感で見られるようになる。
私はこの距離感が、とても大事だと思っています。
作品の中で魅力的に描かれたものを、そのまま現実に持ち込む必要はありません。
むしろ、魅力を感じたからこそ、どこが魅力で、どこが危険なのかを丁寧に言葉にする。
それが、作品を考える面白さでもあるはずです。
では、そのうえで実際にどう使うのか。
完全に真似しない。
けれど、視点の一部は借りたい。
そのバランスを取るために、私はひとつ使いやすい方法があると思っています。
それが、「自分がボンドルドになる」のではなく、心の中に“ボンドルド役”を一人置くという考え方です。
日常で使うなら「心の中にボンドルド役を置く」

ボンドルド的な視点を現実で使うとき、私がいちばんしっくりくるのは、「自分自身がボンドルドになる」と考えないことです。
そうではなく、心の中に“ボンドルド役”を一人置くくらいがちょうどいい。
このくらい距離を取ったほうが、安全ですし、実際に使いやすいと思います。
なぜなら、私たちは現実の中で、感情を持った当事者として生きているからです。
傷つきます。
迷います。
腹も立つし、落ち込みもする。
それを無理に消そうとすると、逆に不自然になります。
だからまず必要なのは、冷徹な観察者になることではなく、感情を持った自分をそのまま認めることです。
そのうえで、もう一人の視点を置く。
いま起きていることを一段引いて見てくれる役です。
「なるほど、何が起きているのか見てみよう」
「この反応の原因は何だろう」
「いまは感情が強いから、結論を急がないほうがよさそうだ」
そんなふうに、事実と構造を見ようとする役。
それを私は、便宜上「ボンドルド役」と呼ぶと整理しやすいと思っています。
ただし、それだけだとまだ危ない。
なぜなら、観察者の視点は便利なぶん、放っておくと冷たくなりやすいからです。
そこで、もう一人必要になります。
それが倫理役です。
つまり実際には、頭の中に三つの立場を置くイメージです。
ひとつ目は、当事者としての自分。
傷つく。
悔しい。
不安だ。
うまくいかなくてつらい。
まずはこの声を無視しない。
二つ目は、ボンドルド役。
いま何が起きているのか。
原因は何か。
次に変えるべき条件は何か。
感情とは別に、構造を見る。
三つ目は、倫理役。
その見方は相手の尊厳を壊していないか。
自分を追い込みすぎていないか。
結果のために大事なものを切り捨てていないか。
その線引きを確認する。
この三人を頭の中に置くと、かなり考えやすくなります。
たとえば、仕事でミスをしたとき。
当事者の自分は落ち込みます。
「やってしまった」「恥ずかしい」「迷惑をかけた」と感じる。
そこに対してボンドルド役が、
「どの条件で起きたのか」
「確認手順のどこが弱かったのか」
と問いを出してくれる。
さらに倫理役が、
「必要以上に自分を責めすぎていないか」
「改善は必要だが、自分の価値全体を否定する話ではない」
とブレーキをかける。
この流れがあると、感情も分析も両立しやすくなります。
人間関係でも同じです。
誰かに冷たくされたとき、当事者の自分は傷つく。
ボンドルド役は、
「相手は何に反応したのか」
「こちらの期待は何だったのか」
「事実として起きたのは何か」
と整理する。
そして倫理役が、
「だからといって相手を単なる敵として雑に処理していないか」
「逆に、自分のつらさを無理に軽く扱っていないか」
と確認する。
この三層構造にすると、極端に走りにくくなる。
習慣化にも使えます。
続かなかったとき、当事者の自分は自己嫌悪になりやすい。
そこでボンドルド役が、
「続かなかったのは、意志の問題か、それとも設計の問題か」
「負荷が高すぎなかったか」
「生活リズムに無理がなかったか」
と見る。
倫理役は、
「成果を焦るあまり、自分に過剰な要求をしていないか」
「続けることそのものが目的になっていないか」
と点検する。
こうすると、ただ気合いで押し切ろうとするより、ずっと現実的です。
このやり方のいいところは、ボンドルド的な強さを“役割”として限定できることです。
自分そのものがボンドルドになる必要はありません。
ただ必要なときに、観察者の視点として呼び出す。
それなら使いやすいし、危うさもかなり減ります。
私は、この「役として置く」という考え方は、作品から何かを学ぶときにかなり相性がいいと思っています。
キャラクターを丸ごと真似するのではなく、その人物の中にある一部の機能だけを取り出して使う。
そうすると、現実でも無理なく応用しやすい。
ボンドルドの場合、その機能はやはり、感情に埋没しすぎず、一段引いて構造を見ることなのだと思います。
そしてこの整理をしてみると、あらためて不思議なのは、なぜ私たちがそこまでボンドルドに惹かれるのか、ということです。
危うい。
怖い。
真似してはいけない。
そこまでわかっていても、なお魅力を感じてしまう。
次は最後に、その理由をもう少しだけ考えてみたいと思います。
それでも私たちがボンドルドに惹かれる理由
ここまで見てきたように、ボンドルドは明らかに危うい存在です。
その姿勢をそのまま現実に持ち込んではいけないし、倫理的に見ても肯定はできません。
それでもなお、多くの読者の中に「このキャラクターは忘れがたい」という感覚が残る。
この事実は、やはり面白いと思います。
なぜ私たちは、ここまで危うい人物に惹かれてしまうのでしょうか。
ひとつには、人は一貫している存在に強く惹かれるからだと思います。
現実の私たちは、どうしても揺れます。
感情でぶれます。
迷います。
言うこととやることが一致しないこともあります。
理想ではこうありたいと思っても、実際には別の行動を取ってしまう。
それが人間らしさでもありますが、同時に、そこには弱さもあります。
そんな中で、ボンドルドはほとんど揺らがない。
自分の原理を持ち、その原理から降りず、最後までその論理のままでいる。
もちろん、その原理自体は到底受け入れられません。
けれど、「ここまで徹底している存在」を前にすると、人は善悪とは別の場所で圧倒されます。
正しいかどうかとは別に、ぶれないものが持つ迫力に惹かれてしまう。
ボンドルドには、それがあります。
もうひとつは、彼がただの破壊者ではなく、常に“先”を見ている存在だからだと思います。
単なる悪役なら、その場で暴れ、壊し、奪うだけでも成立します。
しかしボンドルドは、そういう人物ではありません。
彼は常に、今より先を見ています。
目の前の出来事は、その場の感情をぶつける対象ではなく、次に進むための材料になっている。
この「前進する者」の手触りが、彼をただの敵以上のものにしています。
私たちは日常の中でも、ときどき「もう少しぶれずに考えたい」「感情に飲まれずに前を見たい」と思うことがあります。
落ち込んだとき。
失敗したとき。
誰かに振り回されたと感じたとき。
そういう場面では、感情を持ちながらも、それに全部を支配されたくないと願う。
その意味で、ボンドルドの中には、私たちが持てずにいる強さの一部が、極端な形で表れているのかもしれません。
ただし、それは「理想の人物」という意味ではありません。
むしろ逆です。
理想にはできない。けれど無視もできない。
この距離感が、ボンドルドの魅力をより強くしている気がします。
もし彼が完全に理解不能な怪物なら、ここまで惹かれることはなかったでしょう。
「怖い」で終わっていたはずです。
逆に、もし彼がわかりやすすぎる悪なら、それもまた印象は薄くなっていたかもしれません。
けれどボンドルドは、その中間にいる。
理解したくない。
でも、何を見ているのかはわかってしまう。
共感できない。
でも、一貫していることの強さは伝わってくる。
この「拒絶と理解のあいだ」にいるからこそ、読者の中に長く残るのだと思います。
そして私は、ここに『メイドインアビス』という作品そのものの強さもあると感じます。
この作品は、単純な善悪で割り切れない問いを何度も投げてきます。
進むとは何か。
知るとは何か。
何を代償にしてでも到達したいと思うのか。
その問いの中で、ボンドルドは極端なひとつの答えとして立っている。
だから彼は、単なる濃いキャラクターではなく、作品の主題そのものに深く結びついた存在として読者の中に残るのでしょう。
以前『サマータイムレンダ』で俯瞰について書いたとき、私は俯瞰をどちらかといえば前向きな力として見ていました。
状況を整理し、事実と推測を分け、未来を考えるための力。
それは今でもそう思っています。
ただ今回、ボンドルドを通して考えてみて、俯瞰にはもう一つの顔があることも、あらためて感じました。
俯瞰は、たしかに強い。
だが、それだけでは足りない。
俯瞰の先に、何を守りたいのか。
どこに線を引くのか。
そこまで含めて考えないと、強さは簡単に危うさへ変わる。
ボンドルドは、そのことを非常に鮮やかに見せてくれる存在です。
だからこそ、惹かれるのだと思います。
ただ強いからではない。
ただ怖いからでもない。
強さと危うさが、ほとんど同じ場所に存在しているから。
それをこれほど鮮明に体現しているキャラクターは、やはりそう多くありません。
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まとめ|俯瞰は力になるが、倫理を失うと危うい
今回は、ボンドルドを入口にしながら、『メイドインアビス』という作品の魅力と、そこに見える「俯瞰して考える力」について書いてきました。
『メイドインアビス』は、未知への憧れと、その先にある苛烈な代償を同時に描く作品です。
ただの冒険譚ではなく、「進むこと」は本当に祝福なのか、それとも呪いでもあるのかを問い続ける物語だと思います。
だからこそボンドルドは、単なる敵役では終わりません。
彼はこの作品が抱えている「到達と代償」の問題を、もっとも極端な形で体現した存在の一人です。
そのボンドルドがなぜここまで魅力的なのかを考えると、見えてくるのは単なる残酷さではありません。
むしろ、感情に飲まれず、起きていることを一段引いて見ようとする視点。
損失すら観測結果として扱う強さ。
そして、自分の原理から最後まで降りない一貫性。
こうした要素が重なっているからこそ、彼は恐ろしく、それでいて忘れがたい。
ただし、その強さはそのまま現実に持ち込めるものではありません。
他人を手段として扱うこと。
結果のために倫理を切り捨てること。
痛みをただのデータとして扱ってしまうこと。
そこには明らかに越えてはいけない線があります。
だから、日常に持ち帰るなら取り出すべきなのは、非情さではなく、一段引いて構造を見る姿勢だけです。
感情を否定せず、でも感情だけで結論を出さない。
失敗を自己否定で終わらせず、何が起きたかを見てみる。
人間関係でも習慣化でも、まず事実と解釈を分けてみる。
その意味で、ボンドルド的な視点には、たしかに学べる部分があります。
ただし、その視点は必ず倫理とセットでなければいけません。
私たちが欲しいのは、冷酷さではなく冷静さです。
人を切り捨てるための俯瞰ではなく、人間らしさを失わないための俯瞰です。
以前『サマータイムレンダ』で考えた俯瞰が「守るための俯瞰」だったとすれば、今回ボンドルドから見えたのは、「到達のための俯瞰」がどれほど強く、そしてどれほど危ういかということでした。
だから私は、ボンドルドをそのまま真似したいとは思いません。
けれど、心の中に“ボンドルド役”を一人置く、という考え方には価値があると思っています。
感情の只中にいる自分とは別に、構造を見る役を置く。
そしてさらに、その見方が誰かの尊厳を壊していないかを確認する倫理役も置く。
この三つがそろってはじめて、俯瞰は現実で使える力になるのだと思います。
『メイドインアビス』は、ただ過酷なだけの作品ではありません。
そこには、美しさと残酷さ、憧れと代償、祝福と呪いがいつも隣り合っています。
だからこそ、ボンドルドのような存在があれほど強い輪郭を持つのでしょう。
恐ろしい。
許せない。
でも、忘れられない。
その複雑さごと抱えさせてくるところに、この作品の深さがあります。
もし今回の話で少しでもボンドルドというキャラクターや、『メイドインアビス』という作品に興味が深まったなら、ぜひ本編に触れてみてください。
文章で考えるのと、実際に読むのとでは、受ける印象がかなり違うはずです。
そして読み終えたあとにはきっと、「自分は何を守り、何を代償にしてでも進もうとするのか」を、少しだけ考えたくなると思います。
このブログについて
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
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できるだけ正直に残していけたらと思っています。
